佐々木邦2

好機会

 新しい会堂が出来上って、牧師さんと教会書記が音響の試験をする。説教壇でピンを落した音が座席の隅々まで聞えるようにありたい。
「ずっと後の方へ行って立っていてくれたまえ。もっと後ろ」
 と牧師さんは書記に命じて、聖書を読み始めた。
「よく聞えます」
「今度は、君、説教壇に立って、何か言って見給え」
 書記が説教壇に上った。
「何を言いましょうか?」
「何でも思うことを言って見給え」
「物価はマス/\あがります。聞えますか?」
「聞える。聞える」
「しかるに私の俸給はこの三年間少しもあがっていません。先生、聞えますか?」

 私が入学した頃の卒業生はビリコケでも羽が生えて飛んだ。多少成績が好いと引っ張り凧の形だった。首席で出た従兄の如きは口があり過ぎて選択に迷った。
「兎に角面会丈けはしてやらないと推薦者の感情を害するからね」
 と言った調子で、頼むよりは断るのに骨を折ったものである。
 然るにその翌年からソロ/\売れ口が悪くなった。続いて年々余るという噂を耳にしたが、此方の卒業までには未だ間があるから、川向うの火事ぐらいに考えていた。
「心配することはない。これから三年の中には持ち直す。統計からいっても不景気は然う長く続くものじゃない」
 と本科になった頃も高を括っていたところが、然うは問屋で卸さなかった。不景気はその後年毎に悪化して、此年はそのドン底だという。昨今はもう他ごとでない。
「三菱が唯七人とはひどい」
 と一人が溜息をつけば、
「それへ五十人も押しかけるんだから下積みは迚も見込がない」

 私の家は両隣りとも陸軍大佐である。予備か後備か知らないが、盆栽を弄ったり謡曲を唸ったりして、先ず悠々自適というところだ。目黒もこの界隈は筍と共に軍人の古手が多い。丘麓の片側町三十何戸は半数まで陸軍将校の侘住いである。そうしてそれが大抵中佐か大佐の恩給取りだ。
 東京市外の地価が未だ斯うほど騰貴しなかった頃、この辺一帯の持主が畑と孟宗藪を百坪乃至二百坪に区切って貸地にした。これは昨今市内の華族さまがやっている社会奉仕土地開放である。目黒駅へ十分と称しても、実は十五六分かゝるので、坪四銭という安い地代だった。坪四銭は会社の中どころを勤めていた私に持って来いだったと同時に陸海軍を中どころで引いた人達にも持って来いだったと見える。お互の生活程度では兎に角自分のと呼べる家が欲しいので、地面は来世のことゝ諦め切っている。私は或冬の朝この借地を検分中今の南隣りの主人公と知合になった。先方も坪四銭が気に入って検分に来たのである。名刺を交換して、陸軍歩兵大佐と承知した。

佐々木邦

私は早過ぎたのである。日の出る頃には十五六名集った。しかし大多数の人はこんな壮麗な光景を余所に惰眠を食っているのだと思ったら、気の毒になった。尚お新鮮な空気を充分に吸って帰途につくと、牛乳屋や新聞配達がポツ/\歩いていた。家の近所では女中達が未だしどけない形をして彼方此方で門を開けていた。
「お早うございましたね」
 と妻が迎えた。妻も医者同様私の容体を軽視して、最初は欠勤休養の必要を認めなかったのである。
「少し早過ぎたよ」
 と言って、私は巡査と老人のことを話してから、
「俺は人相が悪いのだろうか?」
 と訊いて見た。
「そんなこともないでしょうが、風体が好くありませんわ。それに夜明け前ですからね。そんな大きな人がそんな形をしてあんな太いステッキを持って歩けば、何人だって神経衰弱の保養とは思いませんよ」

 日本はアメリカよりも自由国である。小学校で進化論を教えても問題にならない。しかし鳥居氏の家庭では、
「お母さん、僕も先祖は猿でしょうかね?」
 と十歳になる惣領息子が尋ねた時、日頃貞淑な夫人が、
「何うだろうかね。私はお前のお父さんの親類のことは知らないよ」
 と答えたので、夫婦の間に一場の波瀾が持ち上った。長火鉢を隔てゝ夕刊を読んでいた主人公は、
「変なことを言うじゃないか?」
 と覚えず鎌首を擡げたのである。
「知らないから知らないと申したんですわ」
 と応じながら、夫人は一方女中に早く食卓の上を片付けるように目つきで命じた。もう一方末の子に乳を飲ませている。又もう一方少し考えていることもあった。三方四方ナカ/\忙しい。
「何も俺の親類を引き合いに出す必要はあるまい。或は猿かも知れないと言わないばかりじゃないか?」
 と鳥居氏は追究した。

 片岡君は又禁酒を思い立った。
 思い立つ日が吉日というが、片岡君は然う右から左へ埒を明けたがらない。思い立ってから吉日を探し当てるまでに可なり手間がかゝる。
「今から禁酒しても来月は小杉君が洋行するから送別会がある。俺は一番懇意だから何うしたって発起人は免れない」
 なぞと言って、兎角大切を取る。
「あなたのような方は身投げの決心をしても大丈夫でございますわね」
 と細君が冷かす。
「何故?」
「何故って、こんな深いところじゃ迚も助かるまいって先ずお考えになりますわ」
「然うかも知れない。未練があるのさ。子供がないんだから、酒でも飲まなくちゃね」
「ですから是非おやめなさいとは申上げませんよ。適度に召上ったら宜しいじゃございませんか?」
「その適度がむずかしいから一思いにやめようと言うのさ」
「それならおやめなさいませ」