佐々木邦

私は早過ぎたのである。日の出る頃には十五六名集った。しかし大多数の人はこんな壮麗な光景を余所に惰眠を食っているのだと思ったら、気の毒になった。尚お新鮮な空気を充分に吸って帰途につくと、牛乳屋や新聞配達がポツ/\歩いていた。家の近所では女中達が未だしどけない形をして彼方此方で門を開けていた。
「お早うございましたね」
 と妻が迎えた。妻も医者同様私の容体を軽視して、最初は欠勤休養の必要を認めなかったのである。
「少し早過ぎたよ」
 と言って、私は巡査と老人のことを話してから、
「俺は人相が悪いのだろうか?」
 と訊いて見た。
「そんなこともないでしょうが、風体が好くありませんわ。それに夜明け前ですからね。そんな大きな人がそんな形をしてあんな太いステッキを持って歩けば、何人だって神経衰弱の保養とは思いませんよ」

 日本はアメリカよりも自由国である。小学校で進化論を教えても問題にならない。しかし鳥居氏の家庭では、
「お母さん、僕も先祖は猿でしょうかね?」
 と十歳になる惣領息子が尋ねた時、日頃貞淑な夫人が、
「何うだろうかね。私はお前のお父さんの親類のことは知らないよ」
 と答えたので、夫婦の間に一場の波瀾が持ち上った。長火鉢を隔てゝ夕刊を読んでいた主人公は、
「変なことを言うじゃないか?」
 と覚えず鎌首を擡げたのである。
「知らないから知らないと申したんですわ」
 と応じながら、夫人は一方女中に早く食卓の上を片付けるように目つきで命じた。もう一方末の子に乳を飲ませている。又もう一方少し考えていることもあった。三方四方ナカ/\忙しい。
「何も俺の親類を引き合いに出す必要はあるまい。或は猿かも知れないと言わないばかりじゃないか?」
 と鳥居氏は追究した。

 片岡君は又禁酒を思い立った。
 思い立つ日が吉日というが、片岡君は然う右から左へ埒を明けたがらない。思い立ってから吉日を探し当てるまでに可なり手間がかゝる。
「今から禁酒しても来月は小杉君が洋行するから送別会がある。俺は一番懇意だから何うしたって発起人は免れない」
 なぞと言って、兎角大切を取る。
「あなたのような方は身投げの決心をしても大丈夫でございますわね」
 と細君が冷かす。
「何故?」
「何故って、こんな深いところじゃ迚も助かるまいって先ずお考えになりますわ」
「然うかも知れない。未練があるのさ。子供がないんだから、酒でも飲まなくちゃね」
「ですから是非おやめなさいとは申上げませんよ。適度に召上ったら宜しいじゃございませんか?」
「その適度がむずかしいから一思いにやめようと言うのさ」
「それならおやめなさいませ」